「ロクサーヌ、あんまり無理するなよ!」
「わかってるってば。おやすみ!」
「じゃ、お先に。」
手を振る同僚を見送って、デスクで小さな欠伸をつく。寝不足は良い仕事と美容の大敵。そんなことは百も承知だ。けれども今は、そんなに悠長に構えても居られないのである。
腱鞘炎で痛む腕にテーピングを施しながら、ロクサーヌはキーボードを叩き続ける。ネアポリスの中心地にある雑居ビルの7階には、最早ロクサーヌ以外に人は居なかった。何しろ日付も変わろうかという時刻である。一階の守衛は夜食を摂り、そろそろ居眠りでもしている頃合いだ。只々キーボードを叩く軽い音だけが、冷たい窓ガラスに反響している。
(ああッもうッ!はやく公表してしまいたい。でも駄目だわ、念には念を入れて裏を取らなきゃ。この記事を書き終わったら、先月の殺人事件についても取材が必要……。)
ロクサーヌは、独立系ネットメディアの記者である。一度は大手キー局に就職し、報道記者としてイタリア中を駆け巡っていた。だが時に視聴率を優先し、真実を捻じ曲げて報道する大手メディアに嫌気がさして、学生時代の友人と一緒に一昨年このネットメディアを立ち上げたのだ。鋭い視点と業界のしがらみにとらわれぬ自由な筆は多くの若年層からの評価を得て、今ではそれが必要充分な広告収入に繋がっている。ロクサーヌは、夢を追いかけて掴んだ自身の仕事に強い誇りを抱いていた。
現在ロクサーヌが追いかけているのは、ネアポリスのゴミ問題だ。18世紀の文筆家がかつて褒め称えた美しき都市ネアポリスも、今ではゴミで溢れ返っている。港の利権、ゴミ処理施設の利権、金のあるところには背後に必ずギャングがいる。大手メディアではタブーとされてきたその実態を、ロクサーヌは今まさにつまびらかにしようとしているのだ。
「あァッ!もうッ!だめ、眠くて堪んない。」
ロクサーヌは天を仰ぐと席を立ち、フロアを出て薄暗い廊下を歩く。「自分へのご褒美に」と買った新しいグッチのパンプスが、暗い廊下にコツコツと高い音を立てている。非常灯だけを頼りに給湯室に入ると、エスプレッソマシンにカートリッジを補充し、溜息交じりにボタンを押す。けたたましい音と共に蒸気が抜け、紙コップにはたちまちエスプレッソダブルが抽出される。ロクサーヌはその芳しい香りを吸い込むと、紙コップに口をつけようとした。
「良い靴だな。」
「ヒッ?!」
男の低い声。背後から耳元で囁かれ、思わず肩が跳ね上がる。取り落とした紙コップから溢れた熱いエスプレッソが、ワンピースから伸びた脚に容赦なく降りかかる。バランスを失う身体。よろめいたロクサーヌの背中は、何者かに抱きとめられた。自分の胸に回り込んだ太い腕。言葉こそ穏やかだが、絶対に逃れられないだろうという圧倒的な強さを感じる。
「仕事熱心なのは良いことだ。だが少しやり過ぎだな、お嬢さん。」
ーギャングだ。ぞっと血の気が引いていき、背中に冷や汗が吹き出した。ロクサーヌはこれまでも、幾度となくギャングからの脅迫を受けていた。だがそれに屈して筆を折ることは出来なかったのだ。知りたいという欲求は、ロクサーヌにとっては何にも勝る。しかし痺れを切らした彼らは、遂に直接的な手段に出たらしい。ロクサーヌは意を決し、男に向かって声を張り上げた。身体が震え、鼓動がどんどん早くなる。だがペンは剣よりも強し。ここで折れてはジャーナリストの名が廃るのだ。
「……ッ!こんなことしたって無駄よ!警察を呼ぶわッ!」
「ああ……、声の大きい女は嫌いだな。上品さに欠ける。」
穏やかで理知的な声が淡々と落ちてきたと思った瞬間に、ロクサーヌは激しい頭痛に襲われた。世界が突然暗転し、成すすべもなく床に倒れる。暗く狭まっていく視界。意識を失う直前に、ロクサーヌは確かに暗闇に浮かぶ紅い瞳を見た。
(……なんて冷たい目をしてるの……。)
§
意識を取り戻したと思ったら、視界が何かで塞がれていた。両脚を開かれ手首は何かに拘束されていて、全く動かすことができない。恐らく、椅子か何かに縛り付けられているのだろう。鼻先を鉄錆と工業用油の匂いが掠めていき、自分が何か物騒な場所に拉致されたのだと想像する。船の汽笛の音、フォークリフトが鳴らす電子音。ロクサーヌは瞼の裏に、ネアポリス港のコンテナ群を思い描く。133万6000平方メートルに及ぶ広大な敷地の内、コンテナターミナルはその約一割、13万平方メートルを占めている。延々と広がる鉄の箱の山。燻んだ色合いのコンテナは、毎日途方も無い数が港へと運び込まれ、そして出て行く。欧州へ、米国へ、極東アジアへ。積荷の六割は税関をすり抜け、五万件の受け渡し証は偽造である。18世紀の文筆家がその景観を褒めたたえたネアポリス港は、遠目から見れば現在においても間違いなく美しい港だ。だが近づいて見れば、誰もが裏の世界を意識せずにはいられない。港はギャングの縄張りだ。ロクサーヌは今、世界で最も危険な場所で身体の自由を奪われている。
「……ロクサーヌ、人は痛みをどこで感じると思う?」
「!」
首筋がそっと撫でられて、戦慄が背中を走っていく。まるで恋人に愛でも囁くような、優しく穏やかな小さな呟き。
「痛みとは、お前が考えているよりも、ずっと感情に左右されるものだ。今のお前の様に視界が塞がれていたり、精神的に不安定な状態にある時は特にな。……今からお前の右手の爪を一枚ずつ剥いでいく訳なんだが……。」
やめてと叫ぶ間も無く手首が掴まれ、凄まじい痛みがロクサーヌを襲う。鋭利な刃物が爪と指との間に入り込み、親指の爪を殊更ゆっくりと剥いだのだ。絶叫が壁を震わせて、自分が数あるコンテナのうちの一つにいることがわかる。無数のコンテナから見つけ出される可能性は皆無だ。この叫びは誰にも届かない。
「こうして予告された痛みは、通常よりも余計に痛むんだ。その部位に意識が集中するからな。」
嗚咽が漏れて、心が折れる。爪は次々と剥がされていき、あまりの痛みで身体を捩ると椅子の軋む不快な音がした。
「ロクサーヌ、わかるか?心なんだ。痛みとは、お前の心が感じるものだ。……さて、俺はお前の家にあった取材データと職場の取材データ、そのすべてを消去した。だがお前はそのデータを外部のクラウドサービスにコピーしているな。ロクサーヌ、お前はそのデータを既に誰かに共有したのか?答えろ。」
「誰にも……見せてない……」
それは嘘だった。真実を掴んだ喜びに負け、ロクサーヌは記事の一部を既に親友へ見せている。だがそれを言うことは憚られた。親友の命を危険に晒すことはできないと、直感的に思ったのだ。
「……ロクサーヌ、嘘はよくない。」
ぽんと肩に手が置かれ、目隠しがするりと剥がされる。ロクサーヌは目の前の光景を見て、そのあまりの凄惨さに悲鳴を上げた。コンテナの隅に伏しているのは親友だった。手足をもがれ、顔をブラインドのように切り裂かれた惨たらしい死体。頭髪に絡まっているのは剃刀の刃だ。だが死体が着ているのは確かに親友の服だった。今日のランチで向かいに座った親友の、バレンシアガの派手なジャケット。
「勘違いしているようだから教えてやる。俺の仕事は拷問じゃあない。お前を出来るだけ残酷な方法で殺せというのが命令だからな。朝まで寝かせないからそのつもりで。せいぜい楽しもうじゃあないか、なァ?ロクサーヌ。」
回り込んできた男の赤い目がすっと細められる。硬そうなプラチナブロンド、軍人じみた立派な体躯。危険に肌が粟立って、自分の死を実感する。
男はロクサーヌの顎を大きな手で持ち上げるとその口を無理やり開き、金属の漏斗を咥えさせる。流し込まれたのはガソリンだ。酷いにおいに噎せ返り、歯は漏斗を噛んで欠けていく。ガソリンで満たされた身体には、きっとそのうち導火線が繋がれるのだ。
だが悲しいかな、この最悪の局面においても、ロクサーヌには職業病的な欲求が拭えないのである。
(……知りたいわ……この男が何者なのか、組織の中で何を担っている人間なのか、どうしてこんな風に残酷になることができたのか……あたしは全部知りたいわ……。)
Da vicino nessuno è normale.
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